2008年1月20日 マラの苦みを克服しましょう。出15:22-27
 신복규    | 2008·01·19 19:15 | HIT : 6,649 | VOTE : 546 |
 
今日、神さまの御言葉を通して主の恵みが皆さんの上に満されますよう祈ります。

今日のテキスト、27.こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。と記録されています。

エリムという所は砂漠にあるオアシスです。そこには水が溢れる十二個所の泉があって、熱い太陽から休める七十本のなつめやしの木があったのです。

私たちが良く考えなければならないことは、イスラエルの民がエリムというオアシスを発見するまでは、容易ではなかったことです。彼らはマラと言う所を通ってから、エリムというオアシスに着いたのです。これは、苦しみをよく勝ち抜いた時に与えられる神様の祝福です。イスラエルの民は紅海の奇跡を体験した後、彼らの士気は天を突き刺すような気持だったのです。

喜びと歓喜と興奮した気持ちで希望を持ってモーセに導かれ、乳と蜜が流れる地、神様が彼らの先祖アブラハムに約束された地に向かって出発しました。しかし、人が生きていく現実の前には実に解決しにくい数多くの難題が待っています。

22.モ-セはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。
 
彼らは水がない苦しみを受けました。日本と韓国ではどこにいても水が溢れていますが、イスラエル、特に荒野では水がないです。人が生きていくのに、のどの渇きは真に耐え難い苦しみです。 私も軍隊の時、毎週、完全武装をして10Kmを走ります。特に夏には苦しくて堪らないです。走るとき水を飲むことは禁じられていますが、田んぼの水を飲んだこともあります。

しかし、イスラエル民は、3日間、水を飲むことができなかったのです。その状況がどれくらい厳しかったかは、想像を超越します。そのような状況の中で、彼らは、マラと言う所に着き、そこで水を発見したのです。喜んだでしょう。彼らは水を飲んでみると、23節に、マラの水は苦くて飲むことができなかった。と書かれています。

それで、そこをマラと呼んだのです。マラとは、苦い、苦しい、痛む、つらい"などの意味です。彼らは気をおとしました。三日前の喜びが、朝の霧のように消えてしまいました。期待と望みが水の泡のように消えました。彼らは一歩も歩くことはできないほど疲れました。それで彼らはマラと名をつけたのです。

そこで、民はモ-セにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言ったのです。しかし、16章を見ると、モ-セは、あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」イスラエルの民は出エジプトをして、わずか3日でありますが、すでに二回も神様につぶやいたのです。
 
25.モ-セがあわてて神様の前に叫んで祈ります。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モ-セはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなったのです。 
 
願わくは、今日の礼拝の時間に、シュルの荒野のマラの苦い水が、甘くなる奇跡がこの時間礼拝を捧げる皆さんの心の中で起こり、家庭からも起こることを主の名によって祝福します。今日のテキストから私たちが学ぶことは、
 
1.私たちが生きるこの世はマラのような世であることを分からなければなりません。
私たちは荒野のような世の中で生きています。 私たちが2008年を迎えて希望に満ちた計画をたてながら、新しい出発をしました。しかし私たちの現実はいかがでしょうか。

まるで、イスラエルが通っている荒野と同じです。皆さんはTVを通して、人から聞いて、荒野がどんなところであるかを大体知っておられるだろうと思っています。荒野がどんなところであると思っていますか。

そうです。 荒野は何もありません。 昼間は熱くて、夜はとても寒いです。苦しみところです。でも、イスラエルを導いてくださった神さまは、彼らを放置しなかったのです。いつも介入して彼らを助けてくださいました。

今日、私たちにもいろいろな苦しみがあります。人が分かる苦しみ、人が分からない苦しみもあります。しかし、私たち聖徒は、この苦みに包まれ、負けることではなく、その苦みに勝つことで、より大きい喜びを味わうべきです。

教会から離れてしまう人を見ると心を痛みます。彼らは、いろいろな理由があるだろうと思っていますが、多くの場合はイエスさまを信じれば、何の困難もなく、万事がうまく行くだろうと信じます。しかし、苦しみが訪れると思わず気を落として教会から背を向いてしまうのです。

しかし、イエスさまを信じるため、迫害や患難を受けることもあり、イエスさまのため損をすることもあります。キリスト教の信仰とは、患難にあった時、それを信仰で克服していくのです。
イエス様は、ヨハネ16:33で、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と言いました。
 
私たちはどんな苦しみや誘惑に負けずに信仰で克服し、勝利しなければなりません。

2.では、マラの苦しみをどのように克服しなければならないでしょうか。
人が苦しみに会うとき、その苦しみをどのように克服するかが重要な問題です。 イスラエルの人々はマラの水を味わってモーセに向かってつぶやきました。モーセに向かって大声で叫びました。

モーセは自分を殺そうとしている民の前で神様に祈りました。人々を見ることなく、 神様に向かって祈ったのです。マラを克服する方法がまさにここにあります。

ヘブル12:2、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。”

したがって、苦しみと試練を克服するためには、神様に頼る信仰が必要です。使徒パウロはピリピ4:13、私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。と言います。

神様はモーセの祈りをお聞きになって彼に一本の木を示されたので、モ-セはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。マラの水を甘い水に変えてくださったので、飲むことができたのです。

神様はイスラエルの民がそちらに来ることをわかって、すでにマラの水を甘い水に変える木を育てておられられました。すなわち、今日、私たちになければならないことをあらかじめ知っておられる方です。 苦しみと試練がある時、私たちがすべきことは、祈りです。

人々が自らの努力でいくら難しい難関を突破してみようとしてもできない絶対的な状況を限界状況と言います。 私たちがこの限界状況を突破することは、神様の力を頼る信仰と神様に叫ぶ祈りの力以外はありません。 詩50:15、苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」
 
3.つぶやきの罪を犯してはいけません。
イスラエルの民が生きる道は、神様に導かれることです。だから、毎日、神様に感謝しながら生きていかなければならないですが、彼らはすでに二回も神様につぶやく罪を犯しました。 彼らがモーセにつぶやくことを見ると、苦しんだことは覚え、神様のすばらしい御わざは忘れてしまう傾向を見ることができます。
 
出15:19-20アロンの姉、女預言者ミリヤムは神さまをあがめます。パロの馬が戦車や騎兵とともに海の中にはいったとき、主は海の水を彼らの上に返されたのであった。しかし、イスラエル人は海の真中のかわいた土の上を歩いて行った。

3日前、イスラエル人は海の真中のかわいた土の上を歩いて渡りました。 ところで、三日後、その恵みを忘れて神様につぶやきます。
 
今日の私たちは、いただいた恵みを長く覚えなければなりません。それこそ常に新しい恵みを受けることができます。 しかし、恵みを忘れれば不平不満の罪を犯すことになるのです。 罪は犯してはいけないものですが、特に私たちが注意しなければならないことは、つぶやくことです。サタンが望むものつぶやきです。

Ⅰコリント10:10、また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。私たち東京聖光キリスト教会の皆さんは、つぶやきはやめましょう。なぜなら、つぶやくは罪だからです。

4.神様はマラの苦しみの後、エリムの祝福を与えてくださいました。
マラの水は私たち聖徒らがみな味わわなければならない試練の泉です。モーセが神様に叫ぶとマラの苦い水が甘い水になりました。マラの苦い水を甘い水に作るために使われた木が何の木だったかは重要でありません。重要なのは神様の御言葉に対する信仰と従順です。

マラの苦い水は私たちを困らせますが、信仰と従順は苦い水を甘い水に変えます。

イスラエルの民は、このような苦労をした後、エリムに着きしました。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営したのです。涼しくて、水も豊富です。ゆっくり休めるところですが、彼らはそこで長く留まることはできません。
雲の柱、火の柱が動けばまた、出発しなければなりません。

エリムは今日の教会です。砂漠の道を旅行する旅人や商売人たちにエリムが大切であるように、この世の中に教会がないなら、荒野のような世の中を生きていく私たちがどれくらい疲れいますか。
愛と恵み豊かな神様はこの地に霊と肉が疲れている私たちのために教会を立てて下さったのです。

(マタイ11:28)すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに來なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

教会は平安と安息と喜びと慰めがある所です。また救いがあって永遠のいのちがあります。 永遠に喉が渇かないいのちの水があります。
 
愛する皆さん。
今日、私たちが生きていくこの時代は、荒野のようであります。世の中は、想像もできない事件が次から次へ起こっています。このような時に私たちが賢く生きていくことができる方法は、ただ一つしかありません。 神様に頼ることです。
 
동경성광교회 신복규선교사입니다.
일본 영혼을 사랑하며,저들을 하나님나라로 인도하고저
이 땅에 온 사람입니다.
하나님께 바르게 쓰임받기를 소원합니다.
     
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