2005年9月18日  『よくなりたいか』  ヨハネによる福音書5章2-9節   滝能章夫神学生
 운영자  | 2005·09·17 18:31 | HIT : 3,640 | VOTE : 449 |
『よくなりたいか』

さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
(ヨハネによる福音書5章2-9節)

導入
 この夏、いかがお過ごしでしたでしょうか。私は、この夏、実践と訓練の時を通されて、目からうろこが落ちる経験を多くすることができました。
 夏休みの初め、和歌山県白浜にある教会に夏期伝道という形で10日間お世話になりました。この地域には、三段壁という自殺の名所があり、何とか自殺を思い留まらせようとする働きが、教会を中心として白浜レスキュー隊と称して活動していました。現在も自殺を思い留まった4人の方々が共同生活をしておられ、何とか自立できるように支援していました。ここで1日の食費、400円で生活していました。
 また、今日の箇所からメッセージを聞く機会を与えられました。
 地元石川県内で、3つのキャンプをしました。子供のキャンプ、中高生キャンプ、教団のキャンプとバラエティに飛んだときを過ごすことができました。中でも、教団キャンプで本日の聖書箇所であるところから教えられました。
その後、沖縄で児童伝道のプログラム研修を10日間に渡って受けてきました。私の描いていた沖縄は同じでしたが、内容は期待しているものとはかなり程遠いものでした。しかし、多くの恵みを受けることができました。それは、子供としっかりと向き合いイエス様を自分の救い主として受け入れ、しかも神さまの御用のために自分を用いてほしいと願う子供が、11人のうち6人まで立ち上がった光景を目の当たりに見たことでした。足りないものを通して神様は、生きて働いておられることを実感し涙しました。素直に応答する姿は、まさしく今日38年間、病気にかかっている人がイエス様の声に素直に応答している姿と重なります。
 夏休み後半に、奥飛騨と言われるところと長野へ、人形劇の夏期伝道に出掛けました。ここでも、多くの子供達と出会うことができました。とても、主にあって有意義な充実した夏休みの期間を送ることができました。

ベテスダの池
エルサレムに、ベテスダという池がありました。この池には、苦しんでいる人たちがたくさん集まっていました。大勢の病人、盲人、足なえ(足のなえた者)、やせ衰えた者が伏せっていた、と3節に書かれてあります。病人は、家で寝ていなくてはならないはずの病気を持っている人たちも大勢含まれていたことでしょう。また、盲人や足のなえた者たちまでも池のそばにいました。それも立っているのも辛く、その場で伏せっていたのでした。そこまでして、そこにいるのは何故なのでしょう。聖書の欄外をご覧ください。3の後半から4にかけて「彼らは、水の動くのを待っていた。主の使いが時々この池に降りてきて、水を動かすのであるが、水が動かされた後で最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである。」と、書かれています。この当時、迷信なのかもしれませんが、「水が動いた後、最初に入りさえすればきっと直る」と信じていた大勢の人たちが「水が動くのを」今か今かと待っている光景でした。それもただ単に待つのではなく、大勢の中の一人だけが癒されるわけですから、私が先に癒されたいという思いが一人ひとり持っていたことでしょう。これは、その人の人生を掛けた戦いが巻き起こっている光景かもしれません。元気な人たちの競争なら、先に飛び込むチャンスはあるかもしれません。でも、何年も何十年も立ち上がれないほどの病気で苦しんでいる人たちはどう思っていたのでしょうか。やはり「これしか治る道がない」と思って池のそばに運ばれてきているわけですから、たとえ伏せっている状態であったとしても、他の人よりも先に「池に入りたい、そのチャンスをつかみたい」と願っているではないでしょうか。いま池の周りに起きている光景は、確かに殺伐としたものを感じますが、私たちの心の状態を含めて考えた時、この当時の状況も、私たちの今の日常生活自体、さほど変らない人間の現実である姿といえます。
声を掛けるイエス
38年もの間、病気にかかっている人は、長い間治りたいと願っていますが、どうしてもチャンスが来ません。ベテスダの池に運んでもらってから、ずーっとそこにいます。何とかチャンスを得て池に入ろうと思っても、他の人以上に身体が動きません。このまま何年ここにいても池に入ることはないかもしれません。では、どうしてこの病気の人は、池のそばでとどまっているのでしょう。他の人の目から見れば、「どうせ寿命が来れば死ぬのに、どうして治る見込みがないのにここに固執するのか」と思われるかもしれません。でも、そう思うのは他人の思いであって、自分でどうすることができなくても、ここにずっーと留まっていました。この病気の人は、「もしかしたら、何かが起こるかもしれない、ひょっとして誰かが手を貸して助けてくれるかもしれない」という、希望を持っていたのかもしれません。私たちの苦しみも、そんな良く似たことがあります。自分に直接関わりのあるところでは、色々とやるかもしれません。また、献身的な奉仕をするかもしれません。でも、表面的な助けに終わっていることが多くあります。本当に苦しんでいる魂のために私たちは「慰めの手」を、差し伸ばされていますか。私たちの現状は、自分のことをまず優先して、自分のことが解決したら他の人のことを考えてはいないでしょうか。
 6節に、イエス様が「よくなりたいか。」と、声を掛けられています。よくなりたいから池のそばで伏せってまでもそこにいるのに、イエス様は「よくなりたいか」と聞いています。イエス様のこの声がけはとても不思議です。すべての状況をご存知であるにもかかわらず、イエスは彼が伏せっているのを見て、あえて「よくなりたいか」と聞かれています。「よくなりたいか」という声がけは、もう一度自分が求めていることは本当に何であるのか、思いを起こさせています。それでは何故、思い起こさせることが必要なことなのでしょう。なぜなら、この人は長い間ここにいるうちに、慢性的に「また、どうせこんなものだろう。」と、気持ち的に希望から失望に変えられて、あきらめた状態で池のそばにいたのかもしれないからです。他に何をするというわけでもなく、惰性的にここにいる中で「よくなりたいか」と、イエス様が言われていることはとても深い意味があるのです。心の中にある求めをもう一度確かめる必要があったのです。
「何故、そんなに苦しんでいるのか、本当に私はよくなりたいと思っているのか」池のそばに運ばれてきたときのことを、思い返したのかもしれません。
素直に応答する病人
 7節にこう書いてあります。病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
 長い間、同じ光景を何度も目撃してきたことでしょう。誰も助けてくれない。ここにある姿は、期待はできないけれども、もしかしたら状況が変るかもしれないことをひそかに求めていたのかもしれません。ですから、イエス様に今、自分のおかれている状況を話しています。
 しかしイエス様は、38年もの間病気にかかっている人に、酷な注文をしています。

イエスの応答
「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」何ということを言うのでしょう。すでに病気が治っているのでしたら、「さあ、起き上がりなさい」と言うことができるでしょう。でも誰も助けてくれない、治る見込みもない人に「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言っています。何もかもご存知であるイエス様が言っているのです。それはまさしくイエス様が語る言葉そのものに力があり、主の御業がなされていくことを示しています。
38年間病気で苦しんでいる人は、「よくなりたいか」の声に応答して、自分の求めが何であったのか、もう一度思いを新たにして、イエス様の言葉を信じて「とこ床を取り上げて立ち上がった」のです。

床とは?
このとこ床は、罪の布団と置き換えることが言えます。この罪の布団は、神さまの喜ばれないことを言ったり、したり、考えたりすることです。また、悔い改めをしないことも罪なのです。
この布団は、ある人にとっては気持ちが良くてなかなか手放すことのできないものかも知れません。また、ある人にとっては魅力的で好んで布団の中にもぐりこんでいるのかもしれません。
私たちは、かつて罪の布団にはさまれて寝ていました。そこにイエス様が現れて「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と、イエス様が私たち一人ひとりに語りかけてくださっています。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」とは、自分の罪がどのようなものだったか“知る”ことから始まります。そしてその罪を告白して、イエス様が自分の罪の罰の代わりに十字架上で死んだこと、また、3日目によみがえったことを信じることによって、罪の布団から起き上がれるようになるのです。このことは、神様からの一方的な恵みのプレゼントであることを忘れないようにしましょう。
しかし罪の布団から起き上がれたとしても、気が緩んで罪の布団の魅力に負けてしまうことが生きているうちに多くの誘惑として襲ってきます。その誘惑に負けて、罪の布団に戻ってしまった時、言い訳を言ったり、正当化しようとしてしまいます。私たちに与えられた神の救いは、誰も奪い取れるものではありません。しかし、罪の布団に戻って、悔い改めないでいたとき、救いの喜びを奪い取られてしまいます。教会に来ていながら、どことなく暗く何かにおびえながら生活している多くの問題はまさにこの悔い改めをしない罪による結果なのです。罪の布団に戻ることによって、救いの喜びがしおれてしまっているのです。心の中に罪を抱えていれば、こころに平安はないでしょう。是非、「よくなりたいか」と、今イエス様が私たち一人ひとりに語りかけている声に素直に応答していきましょう。主の御前にひざまずいて悔い改める時、神様は罪の布団から起き上がる力と赦しを与えてくださいます。

神様を中心とした信仰をもつ
イエス様が全能の力を持って、すべてを良いものに変えてくださることを信じることは、とても素晴らしいことです。その中で具体的な困難にぶつかったとき、結果を求めるよりも先に、その中で主が共にいて助けてくださることを第1に信じていくことが大事なのです。これが私たちに求められている信仰なのではないでしょうか。
神様を第1としたとき、このお方のすることや言われることは間違いがありません。また、イエス様がこのようにしなさいと示されたら、信じて行なっていきましょう。たとえ、私たちにとって、自分の求めに対する期待が相反するようなことがあっても、なおお任せして喜んで従って参りましょう。
イエス様が、この38年も病気になっていた人に声を掛けられました。そして、「床を取り上げて歩きなさい」とイエスが言われた時、みるみる彼がよくなったのではなく、言われた言葉に力があったので「すぐに癒されて、立ち上がることができた」のです。彼は、言われた通りに床を取り上げて歩き出したのです。
信仰の自立は、自分中心の歩みから神中心の歩みに移行することにあります。「自分が信じている」と言う意識から、「私が信じたお方がどういう方なのか」という方向に私たちの信仰の重点が変えられていきます。それは、大きな恵みの機会となります。
「信じなさい」と言われたとき、本当に信じるということがこのことなのです。そこに自分の条件や思いがあったとしてもです。主は、いつも御言葉によって私たちに語りかけてくださいます。御言葉により頼んで歩み、従うことはとても重要です。御言葉が心の内に蓄えられて、主が私に何を求めているのか、いつでもわかるようにしてくだるからです。
今日のイエス様の語り掛けである「よくなりたいか」の声に素直に応答してまいりましょう。
もう2度と、罪の布団を敷いて寝ることのない、主にある喜びと感謝を持って今週歩んでまいりましょう。そして、御言葉の束を抱えながら喜んで私たちの周りの人たちに、福音の種を蒔きましょう。そんな私たち一人ひとりを、主は良いものを持って応えてくださいます。

お祈りします。
     
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