2006年1月22日 "受けるよりも与える幸い" 使徒の働き20:32-35
 신복규    | 2006·01·25 16:40 | HIT : 3,059 | VOTE : 506 |
2006年1月22日 受けるよりも与える幸い使徒の働き 20:32-35

今日は、神さまが私たちに与えてくださる祝福を受ける秘訣が書かれています。“与える者が幸いである”と言っています。

ある神学校の学生二人がいました。彼らは親しい友達でありました。一人の学生はいつも友達にお腹がすいたからパンを買ってくれと頼んだり、お金を貸してくれると牧師になると返すと言ってお金を貸してもらったそうです。時間が経って二人とも牧師になって、貸してくれた牧師は、大きな教会を建てて記念礼拝を捧げる時、貸してもらった神学校の友達も祝いに来たのです。そして、始めのことばが今日、記念礼拝だから祝いのプレゼントが沢山入っていたでしょう。私に時計を一つくれと言ったそうです。それで、その教会の牧師先生は、自分の時計を友達にあげたそうです。これは、実際にあった話です。

ここで私たちは、成功する人と、そうではない人の差を見ることができます。受ける人はあちこちでいつも受けるから金持ちになるはずなのにそうではないことです。いつももらうだけです。そして、与える人はいつも与えるから貧乏になるはずなのにもっと豊かになります。

皆さんは、どのタイプですか。与えるのが好きですか。もらうのが好きですか。勿論、もらうのが好きだと思います。なぜなら、与えれば自分の物がなくなりますが、もらえば、増えるのです。だから、もらおうとしています。計算をすると、いつも与えるほうはお金がなくなるはずだが、ますます、増えて生きます。だから、イエスさまも受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたのです。
今日のテキストにも使徒パウロは、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきだと私たちに教えているのです。

1.受けることだけが幸いではないことです。
多くの人々は、与えるよりもらうのが好きです。自分に何が入ってくるからです。

イスラエルには、死海と言う海があります。ヨルダン川から入ってくる水を受けますが、絶対に流し出すことはないです。上流から流れてくる水を受けるのです。この死海が今まで受けたからと言って幸いな海ではないです。その海は塩辛いです。塩分が30%以上です。私も2回程泳ぎましたが、泳ぐことができない人もその海では溺れて死ぬことはありません。しかし、その海では魚が生きることはできません。だから、死んだ海として、死海だと呼ばれています。

ガリラヤ湖は、ヨルダン川から水を受け入れ、また、下流に流しだすのです。新しい水が入って来ていつも生きるものが沢山生きていて、イスラエルの人々がその水を飲んでいます。いのちの水です。

私たちが知らなければならないことは、受けることだけが幸いでないことを教えています。

2.主が私たちに教えてくださることは、与えるのが幸いであることです。
ユダヤ人が聖書の次に良く読んでいるのがタルムードと言う本です。タルムードの中で、この世で一番幸せな人は誰かが書かれています。一番幸せな人は、感謝して生きる人、人に仕えていく人だと言っています。幸せになるためには、感謝していくことです。

私たちは人に受けようとする気持ちがあるから浴が満たされないし、苦しみます。しかし、あるもので感謝し、仕えていけばこの世で幸せに生きていくことができるのです。

これは、自分の努力だけではできないことです。自分自身は与えて行こうと思うけど、自我はいつも受けようとする本能があるからです。

ルカ6:38に、与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。と書かれています。与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。誰が与えてくれますか。神さまが与えてくださいます。押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくださいます。与えればなくなるのではなく、増えてくるのです。これが神さまの法則です。

私はこの箇所を見て、昔,井戸の水を汲むポンプを思い出しました。去年も1回話しましたが、ポンプは時間が経つと水を汲むことができません。水が出てこない時、そこに水を入れてポンプすると水が出てきます。入れたより多くの水を汲むことができます。

Ⅰ列王記17章に出て来るツァレファテ町のひとりのやもめに関するもの語りを見ると感動を受けます。イスラエルに雨が降らなかったから飢饉があったのです。やもめは夫を亡くして息子と生きていくのに苦しんでいたのです。食べ物もなくただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけ残って、それを食べて、死のうとしていたのです。

その時、エリヤが訪れて、水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。と言い、一口のパンも持って来てください。と頼んだのです。

ここで、私たちがやもめの立場で考えて見ましょう。皆さんは、どのようにしたと考えていますか。もし、私だったら私はエリヤに悪口をしたかもしれません。自分に残っている最後の食べ物をくれと言うからです。また、子どももいます。子どもに食べさせたいです。

しかし、やもめはエリヤの話に従順して食べて、死のうとしていたパンを作って持ってきたのです。

皆さん!
神さまの御業はここから起こるのです。自分も死ぬそうな立場だったけど、人の必要を満たしてあげる時、神さまの御業が起こります。

ツァレファテのやもめは、神さまの祝福を受け、飢饉が終るまで、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならなかったのです。

それだけではなく、これらのことがあって後、この家の主婦の息子が病気になって、病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。死んだ息子のため祈るとき、主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返ったのです。

愛する皆さん!
私たちはいつもイエスさまを自動販売機のように考えます。必要な時、ボタンを押せば必要な物を与えてくださる方のように思わないで下さい。イエスさまも皆さんの献身を願います。
ツァレファテのやもめのように自分も苦しみの中でありますが、まず、神の人のため、最後の犠牲的な愛を示したように、イエスさまも私たちが大切であると思っている物を主に犠牲の捧げものとして願うのです。主はすでに十字架にかかって私たちの罪のため血潮を流して愛してくださったのです。その愛を受けて私たちは、これから与えて行きたいと願っています。

これからは、受けるよりも与えてあげる私たちとなりますように。
동경성광교회 신복규선교사입니다.
일본 영혼을 사랑하며,저들을 하나님나라로 인도하고저
이 땅에 온 사람입니다.
하나님께 바르게 쓰임받기를 소원합니다.
     
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